兵庫県加東市、市街地の東方に広がる静かな森の中にひっそりと佇む朝光寺。
室町時代初期建築を代表する本堂には平安時代後期に造立された東本尊と謎に包まれた来歴を持つ西本尊がお祀りされています。
朝光寺はこんなところ
『鹿野山朝光寺記』と『播磨鑑』によると、白薙二(651)年に法道上人が五尺三寸の千手観音を造立し、現境内地背後の権現山上に朝光寺を開基したと伝わります。権現山上の境内地が狭隘なため、文治五(1189)年に現在地へと伽藍を移し、定朝作の十一面千手観音(五尺七寸)を安置したと記されています。また、縁起には十六世紀初頭に赤松義村によって伽藍が修復されたと記されています。
現在朝光寺に残される手がかりとしては平安時代後期の造立とされる東本尊が最も古く、当寺の草創がどこまで遡れるかは不明です。しかし、『朝光寺文書』には承元五(1211)年「朝光寺千手観音御宝前」との記述があり、遅くともこの時までに朝光寺は創建されていたことが伺えます。一方で、弘安九(1286)年の文書には「往古之霊所」と記されており、当時から朝光寺は古い縁起を持つお寺であると認識されていたようです。こうした記述を踏まえると、当初の伽藍は伝承通り権現山上に築かれていたと考えてもよいかもしれません。
朝光寺が所在する加東市は神戸市から北方に位置し、酒米として有名な「山田錦」の名産地です。森の中の境内には国宝に指定されている本堂を中心に多宝塔や鐘楼、仁王門が立ち、境内の南側には「つくばねの滝」が流れます。現在は吉祥院と総持院という2つの塔頭によって管理されており、ご朱印は吉祥院でいただけます。
二軀のご本尊は60年に一度開扉される秘仏ですが、令和元年に西本尊が重要文化財に指定されたことを記念して、2023年5月5日に11年ぶりに開扉されました。
境内を散策する
珍しい意匠の鐘楼と精緻な組物が印象的な多宝塔
多くの方が本堂裏の駐車場に車を停めてお詣りされるかと思いますが、今回は朝光寺の正面である仁王門からお詣りします。
境内の南側を流れる「つくばねの滝」は落差約10mとそれほど大きなものではありませんが、二筋の水流がごつごつとした岩にぶつかり流れ落ちる様は一見の価値があります。
文治年間に建立された仁王門は三間一戸の八脚門であり、江戸初期~中期の様式を示します。
無駄な装飾のない、細身で力強い阿形像と吽形像がお寺を守護します。
境内の中心に本堂が南面して立ち、その東側に多宝塔と鐘楼が位置します。
多宝塔は相輪伏鉢(相輪根元のお椀状の部分)の刻銘から宝永七(1710)年に再建されたことが明らかになっています。再建当時は桟瓦葺であったと伝わりますが、近年の修理によって本瓦葺へと改められました。
方三間の初層は中央間を桟唐戸、両脇間を塗壁とし、地面との間には水はけをよくし、基礎を保護することを目的とした亀腹が設けられています。
軒裏は地垂木と飛燕垂木がともに角形の二軒繁垂木となっており、組物は出三斗、両脇間には中備えとして撥束があしらわれています。
上層も軒裏は二軒繁垂木であり、組物は尾垂木二手先とします。
通常多宝塔の内部を拝観することはできませんが、この日はご本尊の開帳に合わせて開扉されていました。
多宝塔の北側には鐘楼(重要文化財)と二棟の境内社が立ちます。
鐘楼は桁行三間・梁間二間、銅板葺、寄棟造の袴腰付鐘楼であり、赤松義村によって永正年間(1504~1520)に再建されました。
和様を基調とした折衷様をあらわしますが、箱棟を載せる袴腰がついた寄棟造の鐘楼は類例が少なく全国的にも貴重だそうです。
室町時代初期を代表する国宝本堂
本堂は内陣壁板の墨書より応永二十(1413年)年に建立されたことがわかっており、室町時代初期建築を代表する密教仏堂の一つです。
全体的に和様を基調としつつも、桟唐戸や中備えの双斗など要所に唐様の要素を取り入れた折衷様の建物となっています。
本堂は方七間、本瓦葺、寄棟造の建物で、正面五間を桟唐戸、その両脇間を連子窓とし、両側面は前方一間を連子窓、二間目と三間目を桟唐戸、後方四間を板壁とします。
軒裏は地垂木と飛燕垂木がともに角形の二軒繁垂木となっており、組物は出組、中備えとして双斗があしらわれています。
正面三間の向拝は江戸期に新たに補われ、かつては永仁三(1295)年の銘がある鰐口が架けられていました(現在虹梁に架けられているものは複製)。
堂内は前方三間を外陣、後方四間を内陣とし、両陣を格子戸と菱格子欄間で区切る密教式仏堂の様式をあらわします。
外陣までは普段から自由に出入りすることが可能です。
平安時代後期の特徴をあらわす東本尊と三十三間堂から移坐された西本尊
須弥壇上の宮殿内には板壁を挟んでそれぞれ東本尊・西本尊と称される二軀の千手観音がお祀りされ、脇侍として不動明王と毘沙門天が安置されています。
観音像の脇侍として不動明王と毘沙門天をお祀りする形式を(比叡山)横川式といいますが、このことは朝光寺がかつて天台寺院であったことを示唆します。
二軀のご本尊は60年に一度開扉される秘仏ですが、近年では東本尊が「特別展 神仏人 心願の地(多摩美術大学美術館)」に、西本尊が「平成31年度新指定国宝・重要文化財展(東京国立博物館)」にそれぞれ出展されました。
- 千手観音立像(東本尊)
木造(檜)彩色、一木造、像高157.3cm、平安時代後期、県指定文化財
創建当初のご本尊と考えられる東本尊はほぼ等身大の一木造の像で、頭上面から足先までを檜の一材で彫り出し、内刳が施されています。天冠台に配された頭上面は当初のものですが、光背や台座、脇小手の多くは後補です。穏やかな表情やすらりとした細身の体躯、抑揚が控えめな衣文は平安時代後期の特徴をよくあらわします。
その表現上の特色から柔らかな印象を受けますが、一方で地方佛特有の霊気を感じる仏さまでもあります。
- 千手観音立像(西本尊)
木造(檜)漆箔、寄木造、像高179.8cm、鎌倉時代、重要文化財
西本尊は東本尊と同じく四十二臂の千手観音であり、正手を胸前で合掌し正手とほぼ同じ大きさの宝珠手をおへそのあたりで矧ぎ寄せます。頭上面や脇手はほぼ当初のものと思われますが、宝冠・瓔珞(装身具)・持物・天衣・光背・蓮華座は後補です。髻上には化仏を頂き、髻の周囲には十の頭上面(現在は四面が欠失)と阿弥陀如来の立像を配します。面相は穏やかで、やや目尻が上がった切れ長の目が印象的です。左足枘外側からは「実検了/ 長快(花押)」という墨書が発見されており、またX線撮影によって胎内には円筒形の納入品が収められていることが判明しました。
西本尊を語るうえで外せないのが、本像は蓮華王院から移された像ではないかという説です。
蓮華王院は長寛二(1164)年に後白河法皇によって建立されましたが、建長元(1249)年の大火によって三十三間堂内にお祀りされていた千体千手観音も一五七軀を残して焼失しました。湛慶を大仏師として建長三(1251)年より復興が開始され、文永三(1266)年に竣工し、現在は長寛当初像124軀と鎌倉再興像876軀に加えて、室町時代に造立された一軀の合計1001軀が蓮華王院にお祀りされています。
西本尊はこのうち鎌倉再興像と同じ特徴(檜材による寄木造、面相や衣文の表現、鎌倉再興像に見られる長寛当初像を模した平安仏の要素など)が見られます。また、左足枘に見られる「実検了/ 長快(花押)」という墨書は鎌倉再興像のうち二十三軀に見られます。くわえて、胎内の納入品は大量の紙を巻物のように丸めた上で紙か布で包んだものだと想定されますが、鎌倉再興像にも同様の例が確認されています。こうした多くの共通点から、西本尊は蓮華王院から移されたものではないかと考えられているのです。
移坐の経緯を含めて未だにわからないことは多いものの、非常に興味を惹かれる説ではないでしょうか。
まとめ
室町時代初期建築を代表する国宝本堂と珍しい意匠の鐘楼、穏やかな作風ながら霊気を発する東本尊とミステリアスな西本尊という二軀のご本尊を有する朝光寺。ご本尊は60年に一度開扉される秘仏のため拝観することは難しいですが、展覧会に出展されるなど近年は拝するチャンスも出てきたので、そう遠くないうちにお目にかかる機会が訪れるかもしれません。
朝光寺は人里離れた森に位置している都合上公共交通機関で訪れることが難しく、社町駅からタクシーを利用するか車でお詣りするることになります。お寺へは東西からアクセス可能ですが、西側のゴルフ場を通り抜ける道は非常に狭くすれ違いも困難ですので、東側の朝光寺口交差点から向かうと安全です。
朝光寺から北へ10kmほど離れたところには西国三十三所第二十五番の播州清水寺があります。
基本情報
- 正式名称
鹿野山朝光寺 - 所在地
兵庫県加東市畑609 - 宗派
高野山真言宗 - 指定文化財
国宝(本堂)
重要文化財(鐘楼、木造千手観音立像)
県指定文化財(多宝塔、木造千手観音立像、鰐口、太鼓、鬼追踊) - アクセス
JR加古川線社町駅からタクシーで約20分 - 駐車場
2ヶ所計約15台/無料 - 拝観時間
境内自由 - 拝観料
無料 - 御朱印
可/吉祥院にて - 所要時間
約20分
参考
お寺発行のパンフレット
兵庫県立歴史博物館. 1991.『特別展 ふるさとのみほとけー播磨の仏像 展覧会図録』
神戸佳文. 2023.『ひょうごの仏像探訪』 神戸新聞総合出版センター
淺湫毅. 2000.「兵庫・朝光寺蔵 木造千手観音立像」『京都国立博物館学叢』.22.京都国立博物館編
加東市HP 最終アクセス2024年7月15日